年始に見に行きました。
自分で文章を書きたいが、それはまた後日ということで。
主演のドン・チードルのインタビュー。
ドン・チードル(Don Cheadle)は『ホテル・ルワンダ』の主演俳優です。ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ブギー・ナイツ』や、マシュー・ライアン・ホーグ監督の『16歳の合衆国』といったインディペンデント系映画に数多く出演。さらに『ソード・フイッシュ』、『オーシャンズ11(&12)』、『ラッシュアワー2』など数々の娯楽大作にも出演し、いずれも主役を食うほどの強い印象を残しました。従来より演じられる役柄の幅広さとデリケートな心理表現に関しては現代アメリカ映画界においても屈指と言われていましたが、初の単独主演作『ホテル・ルワンダ』での渾身の演技によってアカデミー主演男優賞にノミネートされ、遂に名実共にハリウッドを代表する俳優として知られるように・・・・というのも再三お伝えしてきたとおりです。
以下に掲載するのは、米本国で『ホテル・ルワンダ』で公開された際にレベッカ・マレー記者により行われた貴重なインタビューですが、内容の濃さから見て、現在までに日本で紹介された『HR』関連資料と比べても一級品の価値ありと断言できます。なお、翻訳はルワ会メンバーのYasuさんによるものです。
ドン・チードル、『ホテル・ルワンダ』について語る
聞き手:レベッカ・マレー記者
初出 :About.com
ドン・チードルは、ルワンダ虐殺を描いたドラマチックな実話『ホテル・ルワンダ』で、実在のヒーローであるポール・ルセサバギナを演じている。4つ星ホテルの支配人だったルセサバギナは、虐殺に際して彼自身の家族だけでなく、1200人以上のルワンダ人の命を救っている。
監督のテリー・ジョージは『ホテル・ルワンダ』の企画を実現するのに多大な苦労を要したが、それでも「この映画を作ってみせる」という決意は揺るがなかった。ジョージは、この映画の成功が主役のキャスティングにかかっていると分かっており、そしてドン・チードルがこの役の様々な面を表現する以上のことができる俳優であることを見出した。「ドンは世界最高の俳優のひとりだ。だから初めから彼を主役に据えたかった。最初にこの企画が出た時、すぐ頭の中に彼の名前が浮かんだよ」と、ジョージは回想する。
ドン・チードル(ポール・ルセサバギナ役)インタビュー
──この映画はなんだか『シンドラーのリスト』みたいなトーンのようで、観るのはきついんじゃないか…と思っている観客に、どんなことを言いますか?
この映画はPG-13指定なので、『シンドラーのリスト』のような映画じゃないことは分かってもらえるだろう。目に見える暴力描写もないし、意味がない映画でもない。実は、レイティングの審査委員会にかけあって、当初ついていた「R」指定を取り下げさせたんだ。どうして「R」になったのか理由を説明するように迫ったら、委員たちは何も満足のいく説明ができなかった。暴力描写もない。著しく性的なシーンもない。セリフも問題ない。1人、Fワードを1回だけ口にするところがあるけどね。彼らの言い分では、「R」になったのは映画の全般的な印象によるものだということだったけど、そんなのは理由にならないよ。つまり、これはこの世界で起こった一事件の話なんだ。14歳や15歳になった子が、この映画のもつ感情的なインパクトで心にダメージを受けるわけはない。心が押しつぶされてしまうこともない。それに、究極的に言えば、これは気持ちを持ち上げてくれる話なんだ。中心の部分ではラブストーリーなのさ。スリラーではあるけれど、本当はラブストーリーなんだ。地道に生きていく男の物語であり、善意が悪意に打ち勝つ物語でもある。僕にとっては、とても勇気を与えてくれる物語なんだよ。
──多くの人は、メッセージを伝えようとする映画に疑念を持っていますが。
僕自身、メッセージ映画というのは好きじゃない。声高に唱えようとしたり、どう感じればいいかを教えようとする映画は苦手だ。そして、この映画はそういう映画ではないと思っている。この映画はただ、ある時に起こったある事件を記録しているだけで、観る人がそれについて自由に考えればいい。ただ、この映画を観た後で、我々の責任とか関わりとか、無気力とか、あるいはこういう状況に自分の身を置くかどうかについて、何も確たる考えを持たないままでいることは、かえって逆に難しいんじゃないかと思う。
──どうしてこの映画を最初にやろうと思ったのですか? この企画に携わる前まで、どの程度ルワンダの状況のことを知っていましたか?
大まかには知っていた。そんなに詳しくは知らなかったけど。いくらかはニュースでも見た。ただアメリカではそれほど大きく報道されなかったんだ。新聞では 7面か8面に小さな記事が載っているだけ。本当に微々たるものだった。それが何年か後になって、「Frontline」(訳注:アメリカの公共TV局 PBSの人気番組)でルワンダ問題のドキュメンタリーを見たんだ。これは見るのが大変だったけど、圧倒されたよ。それでこの問題に興味を持ち始めた。そしてこの映画の脚本を読んで、これなら芸術的なレベルで見ても満足がいくと思ったね。
俳優という立場からしてみると、それは実によく練られた脚本で、虐殺事件のさらに奥まで踏み込んでいけるようなものだった。まるで自分が事件を目の当たりにして、なおかつそれにうまく対処していけるようなね。それで究極的には、この男と家族の物語を追っていくことになるんだ。これこそ実に賢いやり方だと思ったね。だって、何も虐殺事件の教材にするわけじゃないんだから。これは、信じられないような状況をこの男と家族が乗り越えていく物語なんだからね。だから、脚本を読んだとき、すぐに引き込まれたんだ。この役を自分が演じるかどうかを抜きにしても、これは語るべき物語だ、そして世界に知らしめる力がある物語だ、そう思ったよ。
──セリフの訛りの問題はどうやって克服しましたか?
まずは、ありがとう。すぐにダイアレクト・コーチについて、何千本ものテープを聴いたんだ。そのコーチには南アフリカまで付いてきてもらったけど、そこではまた別の女性がついてくれて、これまたみっちりと仕込んでもらった。それはまさに“語学漬け”とでもいうようなものだったよ。その訛りの、音とか調子みたいなもの、それがセットにいた人たち全員から発せられるんだから。スタッフとか、他の出演者たちからね。それが撮影の初日からだよ。本当に語学漬けみたいな感じだった。訛りがいつも耳の中で響いていたくらいさ。「それである日、出演者のひとりでグレゴワール(訳注:主人公ポールが支配人をつとめるホテルの従業員)を演じている俳優がやってきて、いきなり(外国語を)話し出したと思ったら、「おっと、君はこの言葉は話せないんだっけ」ときた。こっちは「おーい、そんなことされてこっちがどうなるか知らないだろ。こっちがどんな気分になってるか分からないだろ」ていう気分だったな。
──撮影前、ポール・ルセサバギナとずいぶん長く過ごしたのですか?
役をもらった時、すぐに彼に電話した。彼はその時ブリュッセルにいたんだ。僕たちは電話で何度か話したけど、それはちょっと難しいものがあった。というのも、距離と「間(ま)」の問題があったからね。ポールが話している時は、キニヤルワンダ語(訳注:ルワンダで主に使われている言語)をフランス語に訳して、それをさらに英語に訳して話すんだ。それに、電話では相手の顔が見えないから、その点もちょっと難しかったね。でも、僕が一度アフリカに行った時、彼も撮影の前にやって来てくれた。それで、彼と一緒になかなか有意義な時間を過ごすことができて、彼を質問攻めにするほどじゃなかったけど…そんなことをすると実際のところ彼に失礼だと思ったし、それに彼が事件のことをどれだけ自分の中で整理できているか分からなかったからね。たった10年前のことだし、彼は多くの人を失っているわけだから。突っ込みすぎると彼を傷つけるんじゃないかと思ったんだ。むしろ、一緒に座って、お互いに安心感を育てていくような感じだったかな。彼はたまに話し始めて、いくつか教えてくれたりしただけだった。でも彼が脚本にも目を通していて、僕らが語ろうとする物語を心から応援してくれている、ということが分かってたから、とても自信になって、頼りにできたんだ。
──人間としての彼の印象はどうでしたか?
ポールはすごい人間だ。最初はね、一目見て、この人は底知れぬものを持ってそうだぞと思わされるんだ。彼の振る舞いはとてもきちっとしていて、身なりもちゃんとしているし、何てったっていつもネクタイを締めて上着を着ているんだよ。それに、言葉も思慮にあふれているし、よく考えてものを言う人なんだ。だけど、知り合ってからしばらく経った頃に、「ああ、そりゃあ2つの言語を通して話していれば、言葉にも注意するだろうな」ってことに気づいた。キニヤルワンダ語やフランス語を話している時は、彼はずいぶん早口なんだ。慣れてるからね。それから、彼と一緒に食事に行くと、彼はよく飲む。飲むのが好きで、食べるのが好きで、ジョークを飛ばすのが好きで、パーティが好きな人なんだ。彼から学んだのは“生きる喜び”という感覚だね。生きているということから得た喜び、これがほんとに大事なんだ。これは予想していなかったね。僕は最初、自分の殻を完全に粉々にされてしまった人を想像してたんだけど、まるでその正反対だった。彼は本当にオープンで、陽気で、気さくな人物なんだ。
──現地の人たちには、どうやって参加してもらったのですか?
彼らのうちの幾人かは、実際の虐殺の生存者たちだったんだ。
──撮影現場にはセラピストはいたのですか?
いや、そこまでの予算はなかった。彼らのうち多くの人にとっては、映画に参加すること自体がセラピーになってたんじゃないかな。ある日、ホテルで、ひとりのエキストラの女性が本当につらい思いをしていた。誰かがそういった状況になっているのを見るたびに、彼らは生存者で、今その事実と向き合っているんだなと思い知らされた。その女性の場合は、彼女の友人がやってきて、「彼女と少し話をしてもらえますか?本当につらい思いをしているんです」と言ってきた。それで彼女のところに行ったら、彼女は自分が経験してきたことを話し始めたんだ。それで僕が「ねえ、出なくてもいいよ。このカットに登場することになってるのは分かってるけど、大丈夫、何とかなるから。無理して出なくてもいいんだよ」と言ったら、彼女は「いいえ、出ます。出なきゃいけないんです」。彼らにとっては、映画に出て物語を作り、それを世の中に出すということがとても大事だったんだ。だって彼らは、自分たちがずっと、世界から無視されてきたと思っていたんだから。
──自分を取り巻く状況にポールが打ちひしがれた、ネクタイのシーンについて話してもらえますか? そのことでポールと話をしたのか、またこれは実際にあったことなのでしょうか?
いや、ポールは虐殺が続いていた間に、何度もああいう状況を体験しているんだ。そういう状況になったせいで彼の身だしなみが乱れたなんてことはなかったと思うな。彼は100日間以上にわたって、あれよりも規模の小さなやつをたくさん経験してる。「毎日、自分は今日こそ死ぬと思っていた」と彼は言っている。毎日がそういう状況だったんだよ。
テリー(・ジョージ監督)と僕が脚本を眺めていたら、中にちょっと様子の違ったシーンがあった。どうすればいいか、そのシーンをどう構成するか、そういうシーンをどこに配置するか、何週間も話し合った。実際にどうななるか、僕らもはっきりとは分からなかった。僕自身も分からなかった。撮影が済んでも分からなかった。それで、とにかく起こったことの全てを代弁するような、そんな何かがここに必要だということを話しあったんだ。
言うならば線路をただ走りつづける列車のように、ポールはその状況にはっきり向き合おうとも感じようともしなかった。というより、できなかったんだ。もし彼の気持ちがバラバラになったら、他のみんなまでバラバラになっていた。だから彼は、表立って向き合うわけにいかなかったし、個人的にも向き合おうとしなかった。でも、川のそばの道を通るシーンの後になって、やっと状況がどうなっているかに気づいて、打ちひしがれて、それでもまたさらに前へと進んでいった、という感じかな。
──ロケ撮影について話してもらえますか?
実は、僕自身はルワンダには行かなかった。他の映画に出ていたからね。この映画に参加してすぐ、2、3週間のリハーサルがあって、それから撮影が始まった。他のスタッフ、テリー(・ジョージ監督)はルワンダに行っていたはずだ。第2班のクルーたちも行って、撮影をしていたと思う。僕たちが撮影をやっていたのは、、(南アフリカの)ヨハネスブルグとその郊外だったんだ。ただ、現場にはとても多くのルワンダ人がいて、それは虐殺から逃れた人々が北や東へ流れていったり、あるいは南へ来てヨハネスブルグにたどり着いた人も多かったからなんだけど。でもこれって、凄いことだよね。僕も家族を呼び寄せて、子どもたちを学校に入れた。2人女の子がいるんだけど、その子たちを現地の学校に入れたんだ。2人にとっても貴重な経験だったと思うし、家族としてもそういうことができて良かったよ。
──結局世界はルワンダでの状況から学ぶことなく、スーダンでまたも同じような問題が起きるに至っています。もし大きな権力が介入して何かをすれば、止めることができるという確証はありますか? 国連は介入できないのでしょうか?
うん、これこそ国連の出番だと思うけど、でも国連だけでは歯止めにならない。彼らだけでは何もできないよ。むしろロサンゼルス警察の2チームもいれば、ルワンダの虐殺を止められていたとも思う。国連は、ひとりの穏健なフツ族の人に証人として出頭させて、フツ族の武器がどこにあったかを聞いていたんだ。フツ族は1年近くにわたって、武器を準備していたんだよね。周到な計画が整っていたんだ。彼らは集めておいたマチェット(訳注:幅広の刃がついた大ぶりのナイフ。山刀)」や道具をずっと隠し持っていた。“それ”が起きた時のために、国じゅうにそういった武器を隠しておいていたんだ。そういった武器のありかを知るフツ族民兵の高官の中に、ひとり穏健派の人がいて、その人が出頭して、国連側に申告したんだ。「武器がある場所はここだ。さあこれで、この状況を止めてくれ」とね。
ダレール(訳注:ロメオ・ダレール将軍。ルワンダPKO部隊のカナダ人司令官で、映画に登場するオリバー大佐のモデルとなった人物)が報告書を国連に送った時、彼は言葉の間違いを犯した。彼は(“ジェノサイド”ではなく)“オフェンシブ”という単語を使ったんだ。国連のほうからは逆に「“オフェンシブ”なことは何らしてはならない。君たちはピースキーパーであって、ピースメーカーではないのだ」という返事が来た。それで彼らは、事態に何も対処できなかったばかりか、規則やらなにやらのせいで、本来の活動すらほとんど丸腰で行なわなくてはいけない羽目になってしまった。おかげで、何がどこにあるのか全部知っているんだぞと、フツ族のほうに釘をさしておく必要ができた。情報の枝葉の部分まで、またそれら武器がどうやって南へ動いたかをね。こういった小さな積み重ねが、あんな結果に発展してしまうなんて、本当に驚きだね。でも、彼らが指令さえ受けていれば、きっと2週間でそれらの武器すべてを差し押さえて廃棄することができていただろうな。
もしそうなっていれば、すべてはまるで違った結果になっていただろうし、まるで違った状況が生まれていただろう。でもその場合、この差し迫った脅威が大きな圧力となることもなかったと思う。人々がそういう極限の状況に置かれているのでなければ、話し合いをする余地もあるだろう。その点でいうと、この場合は余地がなかったわけだ。ルワンダではみんな静かだった。ことわざにあるんだけど、ルワンダ人が静かになるというのは悪いことなんだ。そして実際に、誰も話をしなかった。だからみんな分かっていたはずだ、この脅威がやがて圧力になるだろうということを。
──あなた自身は、何か恐ろしいことが起きているというニュースを見た後で、見なかったふりをしてディナーの席に戻るといったことがありましたか? この映画のシーンのように。
まあ、必ずしもディナーとは限らないだろうけど。でも、僕は違うよ。僕はアーティストだし、そういったことには敏感になっているんだ。そういうことを感じたり、理解したり、もっとよく知ったりしたいというわがままな理由でね。もちろん、好きでもない仕事で1日8時間働いているような人が「遠い国の話だろ」とか「オレには難しすぎて理解できないよ」とか「結局オレに何ができるっていうんだ」なんてことになるのは理解できる。そういう無関心が出てくるのは分かる。けど、そういった態度は、この事件と同じようなことがまたどんどん起こるのを認めることにもつながるんだよ。
──『ホテル・ルワンダ』が終わってから、どうやって元の生活に戻りましたか?
ドラッグさ(笑)。それが一番手っ取り早い方法だね。もちろん、他にもやり方はあるけど、これがちょうど上手くコントロールできるんだ。いや、冗談はさておき本当は、この映画は別に出ていたもう1本の映画に挟まれていたんだ。『クラッシュ』という作品なんだけどね。確か、金曜日に『クラッシュ』の撮影を終えて、月曜日にはアフリカ行きの飛行機に乗った。アフリカで撮影をして、終わったところで帰国し、3日後にまた『クラッシュ』の撮影を終えるというスケジュールだった。それから10日後、今度はシカゴに飛んで『オーシャンズ12』に参加していた。だから、そんなに時間があったわけじゃない。他の仕事をすることで元に戻っていったって感じかな。素早く切り替えをしなきゃいけなかったからね。
──この作品に参加することは、たとえ映画であるにせよ辛い経験だったと思いますが、この後が『オーシャンズ12』という軽い映画だったことは救いになりましたか? 『ダイヤモンド・イン・パラダイス』という作品にも、ちょうどこのあたりの時期に出ていますね。
『ダイヤモンド・イン・パラダイス』が最初だったんだよ。まず『ダイヤモンド・イン・パラダイス』、その1週間半か2週間後に『クラッシュ』の撮影が始まって、それから『ホテル・ルワンダ』に参加し、『クラッシュ』を終わらせてから『オーシャンズ12』に出たんだ。
いつもの友人たちと再び会って、本当に楽しい再会だった。あいつらとまた一緒になって遊んだり、旅行に出たりして…。「じゃ、アムステルダムでも行くか」なんて、そんなノリだった。そうでないほうが良かったんだけどね…。僕らはアムステルダムに5日間いて、それからパリに移動し、さらにイタリアへ行ったんだ。ずっと動き続けていたような感じだった。立ち止まって考える暇なんてなかったね。だから、とにかく仕事に集中するしかなかった。嫌なことだけど。『オーシャンズ12』で真面目に仕事してたのって僕だけだよね(笑)。何しろ、このウンザリする“訛り”ってやつともう一度取り組まなきゃいけなかったからさ。「君らは座り込んで遊んでばっかりいるのに、僕はこのダイアレクト・コーチの発音を聞いていないといけないのかい?まったく、誰なんだよこいつは?」みたいな感じかな。それをまたやらなきゃいけなかったんだから。
──『ホテル・ルワンダ』は後に尾を引く作品でしたか?
まったくだね。でも、仕事はしなきゃいけなかったし。遊んでいるような贅沢はできないから。確かに自分の中でずっと尾を引いていたし、今になっても記憶がよみがえってくる。映画が公開になるし、その関係の取材もあって、当時のことが思い出されるからね。
──あなたはこういったアンサンブル映画ではいつも際立っていますが、どうして主役で出ることがなかなかないんでしょうか?
それはスタジオの問題だね(笑)。僕が魅力を感じる役とか、あるいは僕がモノにできる役というのがそう多くないからね。どんなタイプでもいいから、大スターでない俳優を探しているなんてことも少ないし。僕が挑戦しようとしてないってわけじゃないよ。でも、ほとんどの脚本はひどいものだし、ほとんどの企画はダメだ。まあ、たいていそんなものさ。そして、僕はそんなものには全然魅力を感じていない、そういうこと。
──このへんで休みを取ろうという気はありませんか?
ある意味、今休みを取っているようなものだよ。『オーシャンズ12』は7月に撮り終えたし。『オーシャンズ』の後すぐ、家族とコモ湖(訳注:イタリア・ミラノ近郊にある高級別荘地)にある、ジョージ(・クルーニー)の別荘に遊びに行ったんだ。バカみたいに豪華なところだったよ。彼が去っても、僕らは残っていたくらいさ(笑)。家族でまだ居残ってたよ。立ち去ろうとしない客ってとこだね(笑)。いいヤツだ…ジョージは最高だよ。「これが車の鍵、これがバイクの鍵、それからこれがボートの鍵。目一杯楽しんで、立ち去る時に戸締まりだけしてくれよ。居たいだけ居ていいからな。邪魔はしないから、とにかく居たいだけ居てくれ」なんて言ってたよ。
──どんな別荘だったんですか?
そんなに広くはないね。まあ、何を「広い」と言うかによるけど。7エーカー(訳注:1エーカーは約4046平方メートル=約1224坪)だぜ(笑)。測ったわけじゃないから正確には分からないけど、大きさがつかめるくらいにはね。部屋がたくさんあって、なかなかいい家だよ。トレーニングジムや、階下には小さな映写室まであるんだ。凄かった、とにかく凄かった。湖も綺麗だし、向かいの岸にはお化け屋敷みたいな大きい家があるんだ。本当のところ、その家のせいで彼の家が小さく見えるんだよ。凄く大きな空き家でね、1800年代くらいに建てられたんじゃないかと思うな。
──その空き家を探検してみましたか?
したよ。みんなでそのお化け屋敷に行って、ジョージは「この家で一晩明かしたやつに1万ドルだ」なんて言い出すんだ。だから「よーし、オレがやる」ってみんな言ってたよ。そういうことになって、「あんな家で一晩過ごすなんてイカレてるけど、でもオレはやるぜ」て感じだった。それである晩、みんなでワインを飲みながら遅くまで起きていた時、真夜中の魔女が出てきそうな時間に、僕はみんなに宣言したんだ。「今からボート出してあの家に行ってみるけど、誰か行くかい?」。まずブラッド(・ピット)が「そうだな、お前が行くならオレも行く」と言った。エディー・ジェミソンも「そうだな、お前らが行くんだったらオレも行く」ということだった。それで、ブラッドと僕、それにエディーとその奥さんが、真夜中にそのホーンテッド・マンションに入っていって、探検したんだよ。その時ブラッドは殺されちゃったんだ(笑)。今のブラッドは、実はブラッドじゃないんだぜ。本物は殺されちゃったんだ。嘘だと思うならあいつの目を覗き込んでみろよ、死相が浮かんでるから。死相が(笑)。
──それで、『オーシャンズ12』についてはどんな印象ですか?
『オーシャンズ11』よりいいね。ずっといいと思うよ。本当に楽しんだ。それに、こっちのほうがさらに映画的だしね。テクニカラーっぽいよね。スティーブン(・ソダーバーグ監督)は1作目の繰り返しをやろうとすることもできたはずだけど、彼は頭がいいし芸術的だから、それ以上のものを作ってきた。素晴らしいと思うよ。
──『ホテル・ルワンダ』でのあなたの演技に対する、騒音めいた批判についてどう思いますか?
騒音なんてあるのかい? まあ、騒がせておけよ。